今年は、モコモコな群れが恋しくなりそうなバタバタな予感。
そこで、既にモコモコと日向ぼっこ中。
ストックホルムの旧市街、小さな編み物店から連れ帰ったクッション。
クルクルした毛並みが、なんだか愛しくさせるのです。
このような居心地の場を作って、香を焚き水を選んで沸かし、心が選ぶモノを飾り、意識を目覚めさせるために茶を飲む。
茶は人を習慣から解き放つもの、自由になるために飲む。
茶ほど意識を目覚めさせるものはないと、タオイストで英文学者の加島祥造氏は言う。
お茶は自然のエッセンスを飲むもので、究極の目的は本質的な味の良さを汲み取ること。でも素直にそれを味わっている人は少ないヨ。(和楽)
この言葉を見て、私は宇治抹茶の三品種飲み比べ茶会を突如催したのだった。
何処の茶会も、道具礼賛ばかりで抹茶の味わいを語り合う事はまず無い。
長年研鑽を重ねていても、このような単品種を飲んだ事は無かったと、興味深くゆっくりと味わう茶の仲間達。
それもそのはず、市販されている抹茶は、ほとんどが合組(ブレンド)して世に出され、御家元好みナントカの白だ昔だという銘が付く。
聞くところによると、外見の流儀は違えど中味は一緒らしい。
要するに、御家元好み、茶席の主旨に近い銘、有名ブランドが茶会に選ばれる。
合組の内容や産地の方達の御苦労は話題には上がらない。
私は、道具の作家達を語るように、お茶を語ってもいいのではないかと考える。
一服のお茶に向かっての全てが装置なら、そのお茶そのものの美味加減を語りたい。
「お茶の御名は?」「お詰名は?」の通り一遍の会話から、もう少し作り手に寄り添った会話をしたら、お茶の良さが印象に残ると思う。
道具の印象だけではない、美味しいお茶だった、と言われる茶をしたいものです。